Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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【概要(Amazon掲載)】
本書は、「自己開発(啓発)セミナー」における《マインドボディコントロール》の手法をモデルにして、そこで組み立てられ作動する装置の機能を分析し、現代のさまざまなテーマを考え、論争していく手がかりを提起する。なお、ここで《マインドボディコントロール》とは、「心身がある特定の<組み合わせ=装置>に応じて統御される事態」である。本書は、ライフ・ダイナミクス社による自己開発(啓発)セミナーの潜入記録を<言表分析>の素材とする。本書では、セミナー分析を通じて、グローバル資本主義段階における<他者>の消去装置とその限界がテーマ化される。本書でいう<言表分析>は、その端緒の着想をフーコー(主に『知の考古学』)、ドゥルーズ+ガタリ(主に『千のプラトー』の「いくつかの記号の体制について」)およびデリダの<脱構築>の手法に負っている。


【付記】
・.本書は、JICC出版局から刊行されたライフ・ダイナミックス社の「自己開発(啓発)セミナ-」の記録『洗脳体験』の記述の分析を展開させる形で、現代の様々な「危機的問題」を考え、論争していく手がかりを提起するものです。
・.執筆期間は、昨年の4月15日から5月19日及び5月下旬から6月上旬にかけてです。
・.本書は全体の構想の「前編」です。
・.引用されている『ゼロ・アルファ』(副題:出来事のために)は、私が『告白の行方――《欠如の迷宮》の旅とその破壊』以前に書いたもの(未刊)で、文中で一部実験的に行った様に、本書はその注釈にもなり得ます。
・.本書の記述に、私が微力ながら関わらせていただいたNGOのパレスチナ子どものキャンペ-ン、チェルノブイリ子ども基金での経験が生かされていることについて、これらNGOで直接・間接に出会った人々に深く感謝いたします。
・.本書は、目次にある目印となる言葉(記号〈〉、《》ははずしてあります)を手がかりに、まったく自由かつ多様な読み方、使い方が可能だと思われます。本書から、ほとんど無限とも言える膨大な論争場面が生まれることを心から祈ります。
の記述を入れる。
【目次】
「――旅立ち?」
告白 欠如(の迷宮) 洗脳体験
【プロロ-グ】
セミナ- ダイア-ド …の為 ニ-チェ 「よい/わるい」と「善/悪」
【ベ-シックセミナ-第1日】………
言説的レベルと非言説的レベルの組み合わせ 顔×声 主体化の装置 空虚な主体=「私たち」の言説的な構成 プラトンの系譜 分身=欠如体 種別化の装置 脱色・殺菌/剥奪作用=着色作用 真理=女 負い目の感情 僧侶たち 選別の装置 言表 言表行為 空虚な言表行為の主体=X(=「私」) わかち合い ディベ-ト 選択の結果=人生 やましい良心 混成的な経験の流れ 
【第2日】
パ-トナ- 班 守らせる約束 グランドル-ル 反感 禁欲主義(的) コレハ約束デハナイ 約束をなし得る人間 ドゥル-ズ 能動的 VS 反動的 おしまいの人間たち 赤黒ゲ-ム トレ-ナ- 有機化=「我々の身体」化 生き延びること 賭という装置 さいころ遊び 我々=人間 ゼロ・アルファ マラルメ=ヘ-ゲリアン マラルメ=ニ-チェアン 無への意志 
【第3日】
年若い母親 ア-ク・インタ-ナショナル ライフ・ダイナミックス 安部公房 生命=倒錯 バ-バラ・ドゥ-デン フ-コ- カネッティ 生成変化を盗まれる少女 ドゥル-ズ+ガタリ 
【第4日】
裂け目 
【インタビュ-とポストセミナ-】
顔貌化 セミナ-の分散 教団 告白の禁止=告白の強化=性的興奮の強化 風景化=すべて色づいた風景の生成 
【アドバンスセミナ-第1日】
河口湖合宿 顔と風景の同時・対消滅 素顔=真実との戦い すべての他人に共通している内部 私たち=我々 アルフォンソ・リンギス 拷問 超グロ-バル市場 黙示録的装置 白い壁と黒い穴 遊びじゃない人生 オナニ-とマスタ-ベ-ション 緊急、緊急、緊急 「カミカゼ」モデル 自爆テロ サリンの散布 ハイデガ- 死への存在 思考 オ-ガズム中心主義 フロイト エリザベス・グロス 調整・配備 スピノザ(主義的)フィ-ドバック 弁証法的訓練 (民主主義的)国家(装置) カフカ(の『城』)チェルノブイリ 広河隆一 告白の主体=「言表の主体」に作り替えられた空虚な「言表行為の主体=私」 来るべき者たち、あるいは民衆 
【第2日】
IAEA 永遠の現在 予告された死の無際限な反復 怪物 測量師Kとゲストハウスのお内儀の沈黙の戦い ブライアン・マッスミ 根源的な事故/出来事(プライマル・アクシデント) ポ-ル・ヴィリリオ 零落/卑賎(アブジェクション)「役にたたないもの/働けないもの」の義務論 スリ-マイル 放射能恐怖症 広島 第二のエイズ 「因果関係」の立証(責任) ゴミ処理場 あるもの=X 放射性廃棄物 ダイオキシン ヒ素 BC兵器の残骸 HIV 隙間/裂け目 水俣 セラフィ-ルド 剥奪の装置 ボ-トの実習 石垣島セミナ- 「投票」という装置 ここにいる全員の責任 コマンド訓練機能 汎用性スナイパ- フィリップ・ディックの「シミュラクル兵器」 「あらかじめ代理された自己の代理請負人」としての「私たち=我々=ここにいる全員」 ここにいない誰か(の運命) 監禁の空間 VXガス プラズマ・ハレ-ション あなたは一体「どこにいる?」のか、そしてあなたは「ここにいるのか/いないのか」 ハルマゲドンの夢 尋常小学修身書巻一児童用 ココニイルヨイコドモとココニイナイワルイコドモ 超大量虐殺 究極の選別とその永遠の完結不可能性 ハイパ-・ミクロ・ファシズム ココニイルヨイコタチのココニイナイワルイコタチへの変換/偽装/擬態 表現と内容(の形式と実質) ダイアグラム 超コントロ-ルの時空多様体 「セミナ-」の一義性の探求 エマニュエル・レヴィナス 「ユダヤ人」と「パレスチナ人」 デリダ ある種の性的中立状態の決定的な瓦解 ル-ス・イリガライ 「中立的な」身体という地位/身分への女性の還元 知あるいは真理の生産における男性の脱身体化/身体剥奪 女性への生成変化 知あるいは真理=脱身体化した男性にとっての「欲望の対象=女」 女子高生監禁殺人事件 「いじめられる・自殺する・体罰を受ける=殺される方が悪い/問題がある」という集団的言表の「うわさ」としての散布 いつもと同じ「顔」と「風景」の中で…… ロシア原子力潜水艦の終わりなき解体処理現場における(悪)無限の循環 ラカン 死の贈り物 再び、やましい良心 永遠かつ無限の負債としての神 贈り与える徳 そして再び、来るべき者たち、あるいは民衆……(未完)
【あとがき】
 まだうら若い花咲く乙女たちの一人アリアドネ-が、クレタ島のクノッソスの迷宮からの脱出の鍵を手にしていたのかどうか。そしてディオニュソスに見初められ、奪われ、結ばれたのかどうか……。
 この問いに少しでも近づくことが出来たのか、あるいはいつか少しでも近づくことが出来るのかどうか。今の私には見当もつきません。
 そこで、駆け足でつたないものにならざるを得ないことを承知の上で、《言表分析》の「方法論」を素描することにします。勿論、「方法論」などという実にもったいぶったものに興味を覚えられない方は無視していただいて結構です。
 ・.何故《言表分析》なのか?
 ――ここで実験的に定義される《言表分析》は、〈言表行為の主体〉の生産過程において、同時にこの主体が〈言表の主体〉に作り替えられるプロセス(この生産・作り替えの場を〈セミナ-〉という概念で呼ぶ)に分析の焦点を絞り込んでいます。即ち、《言表分析》は、分析対象の言表群が位置する極めて限定された、任意の〈セミナ-〉と連結した布置の規則性をあらわにし、同時にその布置の規則性を転位/変換する《その言表群と他の言表群との連結装置》を構成することによって、この生産・作り替えのプロセスそれ自体を《転位/脱調整・配備》させることを狙っています。
・.ヨ-ロッパ、あるいは「欧米」の〈主体化〉は「日本(の現実)」には存在しない、またはほとんど希薄であり、その枠組みに「日本(の現実)」を還元することはできないのではないか?
 ――《言表分析》は、それら多様な「ヨ-ロッパ」だとか「日本」だとか呼ばれる時空を〈セミナ-〉という調整・配備の装置として構成/変換=超-連結する装置(これを《超コントロ-ルの時空多様体》という概念で呼ぶ)を仮定したその装置の探究作業でもあります。
 なお、「日本(の現実)」を分析するための仮説を描くとすれば、以下の様になります。即ち、
 『ごく間に合わせ的な〈主体化〉を達成する無数の〈セミナ-〉が、その都度、絶えず(やや古風な表現をするなら)《突貫工事》的に構成され、いわば閉鎖系における水流の半永久的な旋回運動といった純化された状態で遍在している。これら無数の間に合わせ的な《突貫工事》の束においては、ニ-チェを受けてフ-コ-が探究・分析の焦点とした「ギリシアの系譜」が潜在的レベルとして内包しているベクトル、即ち《能動的・自己統合的な主体化を促すベクトル》よりむしろはるかに《分散的なベクトル》が内包されているはずだが、
同時にこの分散のエネルギ-と拮抗する強力な、ただし必ずしも「自己への」ではない《集束的・回収的なベクトル》が作用しているものと考えられる』
 ――あえて要約すれば、一切の限定された装置をその内部の極限から突破する可能性が託された、言い換えれば一切の限定された装置の作動速度を超え出る可能性が託された唯一のものとしての《無限の速度》、即ち〈思考〉の回避ということになります。(「思考(無限速度)」と「論理(有限速度)」の差異。)
 〈我々〉を取り巻くあらゆる危機的問題が、この〈思考〉の回避という「日本(の現実)」から生成してくるわけです。 
 ――《言表分析》は、これら複数のベクトル及びそれと相関する装置を連結しているレベルを想定し、それを探究することが出来ますが、この際、想定されたレベルへの「還元」ではなく、まして生産された効果としての「内面」の探究ではさらさらなく、あくまでも複数の装置・ベクトル間の連結、転位、変換に注目した分析を方法として内包していることが条件となります。即ち、〈分散〉の抹消不可能性。 
 ――ここでは、ある特定の〈著者〉の固有名の署名がなされたテクスト群への「還元」といったあたかも「テクスト空間の外部」の不在性が前提され得るかの様な方法論的選択がおよそ問題にされていないことは言うまでもありません。
 ――この・の問題を探究する際に、安易な「歴史的連続性仮説」に陥らないという条件で、「日本(の現実)」における総体的な主体化の装置としての「公共事業」の分析が一つのモデルになり得るものと思われます。
 ――なお、(適切な共同作業によって、ゾロアスタ-=ツァラトゥストラ教の系譜等との連結関係が探求され得る)「ギリシアの系譜」を『告白』の著者アウグスティヌスとの関係において分析する手がかりになり得る著作及び論文として、次のものを挙げておきます。
Peter Garnsey,“Ideas of slavery from Aristotle to Augustine.”1996.Cambridge Uni
versity Press.
Fredric Jameson,“On the Sexual Production of Western Subjectivity;or,Saint Augus
tine as a Social Democrat.”in“Gaze and Voice as Love Objects.”1996.Duke Univer
sity Press.p.154-178.
 ――参考までに、この《言表分析》の方法論に対して、私の求めに応じて書簡を寄せてくれた友人の小松原俊一氏の記述を引用させていただきます。ただし、本人とのその後の対論を踏まえて修正と彫琢を施してあります。
 『ダイアグラムとしての〈セミナ-〉は、その内容として物質的な能動-受動を持っている。「ギリシアの系譜」は一つのダイアグラムではなく、権力-潜在態における特異な出来事、即ち「ひだ」の問題である。ダイアグラムは、権力について言われるものであるが、権力そのものではない。権力そのものはある意味でカオスだ。「ひだ」はカオス内の特異な出来事、物質的能動-受動とは異質の能動性であり、もしも物質的能動性を「相対的」と呼ぶならば絶対的能動性である。フ-コ-が分析した近代のダイアグラムは(そしておそらくキリスト教のダイアグラムである「司牧型権力」も)、主体を連結器にして、相対的能動-受動と絶対的能動性を接続し、言表可能なものと可視的なものを現実化し、地層化する。〈セミナ-〉はこのフ-コ-のダイアグラムとは別のダイアグラムだ。おそらくそれは絶対的能動性を欠いたダイアグラムである。勿論、主体化の点は持っている。しかし、その点は相対と絶対の連結器という内実を持たない。その点は真に空虚な点なのだ。相対的能動-受動はそこで切片として作り上げられる。情動は充填される。こうして作り上げられた能動性は絶対のみせかけしか持たない。この〈主体化〉が「突貫工事」であり、「分散的なベクトル」を内包しているのも、そこに「ひだ」がないからだ。見方を逆転してみると、〈セミナ-〉こそドゥル-ズ+ガタリの言う「主体化の体制」を充分に表現している。「主体化の体制」は本来「突貫工事」でしかあり得ない。フ-コ-が分析した〈主体化〉は(彼が語る限りでの)「西洋」の特殊事情によって〈知〉という仕方で地層化する。この地層化においては、主体化の点を「ひだ」との連結が占めている。デカルトや精神分析においてすら、その〈主体化〉の装置には、絶対的能動性としての「ひだ」(Cogito、リビド-)がある。それはまた抵抗の拠点でもあり、フ-コ-はそれを「ギリシアの系譜」の中に見ていたし、ドゥル-ズ+ガタリはそれを展開し「存立性」という概念を作り上げる。〈セミナ-〉は抵抗の拠点を欠いている。それ以上に、〈セミナ-〉は全力をあげて「ひだ」の形成を避けようとしている。《集束的・回収的なベクトル》は、そうした「ひだ」の回避の結果ではないのか。
 〈セミナ-〉は主体を分散させる――「ひだ」を欠いているが故に。
 〈セミナ-〉は主体を集束させる――やはり「ひだ」を欠いているが故に。
 分散したすべての要素は、まさしく分散しているが故に潜在的に集束・回収の中心である。全ては受動的に進行する。他の要素との関係でたまたまある要素が中心とされる。その中心との関係で他の要素は集束され回収される。「ひだ」が絶対的能動性であるとするならば、この要素は絶対的受動性である。「西洋」の〈主体化〉は「ひだ」を取り込む。そこでは複数の「ひだ」の集束がもくろまれ、そのもくろみを強化するために調和=和音が予定されている。ニ-チェはそのやり方をこそ攻撃した。「ひだ」の分散と不協和音。永遠回帰。〈セミナ-〉にとっては「ひだ」の集束も調和も重要ではない。そこで問題となるのは、「ひだ」の生成(の回避)である。〈セミナ-〉はどのようにして「ひだ」の生成を回避するのか。
 おそらく、『告白の行方――《欠如の迷宮》の旅とその破壊』から開始された〈セミナ-〉分析はその点を明らかにしていくと思う。
 もしもそれが明らかにされるならば、私たちにとっての抵抗の拠点も明らかになるだろう。とにかく〈セミナ-〉のただ中に「ひだ」を作ることが問題だ。もしも〈セミナ-〉が「ひだ」を回避する装置だけを持ち、「ひだ」の集束と調和の装置を欠いているならば、即ち《集束的・回収的なベクトル》が「ひだ」の回避の結果に過ぎないならば、そこに生成する「ひだ」はただちに外の「ひだ」を巻き込み、またそれらに巻き込まれ、永遠回帰を実現するかもしれない』

 この本の原稿は、数年ぶりに再会した友人の川上裕司氏による、研究発表の依頼に応じて書き下ろしたものでした。彼に感謝します。何よりも、このつたない原稿に目をとめていただき、出版を引き受けて下さった近代文芸社の福沢英敏氏に対して心からお礼を申し上げます。また、編集担当の山内久実さんへの決して揺らぐことのない信頼に甘えてしまったことが多々ありました。なんと感謝してよいのか分かりません。そして、対話の快楽を通じて、思考をその都度暴力的に目覚めさせてくれた多くの友人たち、ありがとう。

 ――最後に、ナ-ガ-ルジュナ(竜樹)、ベケット、道元の言葉を自らへの未完の問いかけとして引用することで小著の結びに代えさせていただきます。(あたかもデ・キリコの描く、沈黙の予感に満ちた、いつかどこかの街角で偶然出会ったかの様なこれら言葉たち……。)

 『生の過程には、始まりも終わりもない。(……)それは、自由と区別される何ものも持たない。自由は、生の過程と区別される何ものも持たない』
 (Translation and Annotation by David J.Kalupahana.“Nagarjuna The Philosophy
of the Middle Way.”1986.State University of New York Press.p.206,366.)

 『そこで私は家へはいって、書いた、真夜中だ。雨が窓ガラスを打っている。真夜中ではなかった。雨は降っていなかった』(『モロイ』)
 
 『自己の自己にある、模索およばず』
 (『正法眼蔵』「古鏡」より)
                                      著者



【著者紹介】
東京都立大学大学院哲学専攻博士課程単位取得。12歳頃からバラ-ド、カフカ、ニ-チェ、ランボ-、リルケ、エリオット、(アンドレ・モ-ロワを介して)プル-ストなどの作品と出会い、’75年10月から『ゼロ・アルファ――出来事のために』(「――旅立ち?」を参照)の端緒となる詩作を開始する。論文:『カントにおける超越論性について――演繹論を中心にして』、『規則と経験――《批判》の成立及び展開として規定された自己形成過程の考察』、『経験の形而上学と歴史の造型――カントとフ-コ-』など。


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